パンプキン・シザーズに見る贖罪
人間は転生を繰り返す存在です。
今の生では人を殺した事がなくても、過去世で人を殺した事がある人間は、かなりの数いるのではないでしょうか。というか今回が初めての人生でなければおそらく全ての人間が、過去世では殺した事があるでしょう。歴史で戦争があれだけ起きていて、その全てから逃れる事のできた魂がもしもいたとしても、レアケースだと思います。私自身も過去世で人を殺している経験が何度かありますし。
『人を殺すと生まれ変わっても消えないシミがつく(多分魂に?)』といった霊能者さんがいます。
私としても、生まれ変わっても消えないかどうかはともかく、人殺しに対してのトラウマというのは過去世であるにもかかわらず強力にその人に根付くやっかいなものであるという認識はあります。
しかし、それ以上に私は『消えない』という表現に引っかかっています。
だって、一度でも人を殺した事があるならばもう二度と贖罪されないというのならば、転生を繰り返す以上いつかどこかで殺し殺されをしている可能性の方が高いわけです。何をどうしても消えない罪が生まれる前からあるのならば、正直人生頑張る気になれません。
なかなかリアルでこのトラウマに悩んでいる方にも出会いませんし、もしそういう経験があったとしても相当な身内でもなければあえて話したりはしないでしょう。さて、実際に人殺しの罪は消えないのかどうか?検証できません(私自身は過去世に対しては状況として納得して選択した事なので、トラウマとは違いますし、だからこそ思い出す事が出来ているのです)。
こういう時に便利なのがフィクション作品です。
フィクションの中ではリアルタイムで人を殺したり、そしてそれで懊悩する、あるいは楽しむ、そんな様々なタイプの人間がたくさんいます。
今回私が参考にしたのは「パンプキン・シザーズ」。タイトルは軍の小隊名で、通常の軍事行為をする軍隊ではなく『戦災復興』をする部隊です。自衛隊の災害支援活動だけをするような感じの部署ですね。
主人公のランデル・オーランドは戦争帰りで、戦争で人を殺した事に対して仕方なかったと割り切れず、ずっと悩み続けています。
かなり長い事悩み続けていたのですが、そんな彼が一つの心情を吐露しているシーンがあります。
やっぱり、救われたいのですよ。
それに、『自分はもう駄目なんだ…』とくらーく過ごしていると、そんなあなたを愛している周りの人たちも暗くなってしまいます。
周りの人たちは『あなた』と一緒に幸せになりたいのに、あなた自身が拒絶してしまってはそれは叶わない。誰も彼もが幸せにならないより、誰か一人でも幸せになれた方が良くないですか?
自分がやった事をそれが何であるのか、正しく認識するのはとても大切です。でも、現実に刑務所に入るなりしての償いと、スピリチュアル的な償いが必ずしも一致するわけではありません。もっと分かりやすく言うと、自分が『これが償いだ!』と思ってやった事が必ずしも本当の意味での償いになるとは限らないわけです。
因果応報というのはきっちり必ず訪れるものですが、それを『シミ』として表現するのも間違っていないでしょうし人殺しは重大なトラウマな事には変わりありません。それに対しての報いがどのような形で、いつ来るのかは簡単に分かるものではありません。転生しても持ちこすシミであるならば、来世である可能性もあるわけです。
そこに思い悩むよりも、自分がすべき事を行う方がよっぽど建設的です。
ランデルの『それでも許されたい…いつか幸せに生きたい!』という願いが、私には人殺しの我儘とは思えません。人生を懸命に、真剣に生きる人間の魂の叫びだと思うのです。
守るべきもののためには戦わなければならない事も現実的にあるのです。
嫁と子供が通り魔に襲われそうになっているのを助けようとしたお父さんに対して赤の他人が『その男性が通り魔に殺される可能性があるし男性が通り魔を殺す可能性がある、だから歯向かうのはやめなさい。戦わせる嫁と子供は男性に人殺しをさせる酷い人間である。トラウマを男性に植えつける気ですか?抵抗しなければ通り魔は何もしません。抵抗する男性が悪いのです』って言われたらどう思いますか?
お父さん切れますよね?
そしてもしお父さんが過剰防衛で通り魔を殺してしまったとしても…少なくとも嫁と子供だけは責めるべきではないでしょうし、そこにある『罪』というのは殺人、と安易にひとくくりにされていいものではないでしょう。
人殺しが罪である本質は、命への敬意の有無の問題なのだと考えています。そしてそれを理解して自分なりに行動した時、真なる贖罪となるのかもしれません。